久しぶりのブログ更新になります。
本当は、これまで書いてきた「不登校の話」の最後のまとめのような記事を書く予定でした。けれど、その前にどうしても先に書いておきたいことができたので、今日はそちらを書かせてください。
今の自分の正直な気持ち、というか、決意のようなものについてです。
まず、結論から。広宣流布のために生きていこうと決めました
今、私はとても大きな悩み、大きな苦しみに直面しています。
今年に入ってからは、毎日3時間も4時間も題目をあげる日々が続いています。
そんな苦しみの真っ只中で、私はひとつの決意に至りました。
これからは、広宣流布のために生きていこう、と。
これからの私の人生は、広宣流布を一番の軸に置いて、そのために自分は何をすべきなのかを中心にして生きていく。そう、心に決めたのです。
これまでの私からは考えられない決意です。
なぜそう思うようになったのか。今日はその経緯を、自分の正直な気持ちとともに書いていきたいと思います。
私はそんなに熱心な会員ではありませんでした
もともとは、私はそれほど熱心に学会活動をしてきた人間ではありません。
題目はあげる。けれど、会合に出たり活動に出たりは、できればあまりしたくない。したくないけれど、こんなに題目の功徳をいただいているし池田先生も家族にも本当に感謝しているから、やらなければいけない気がする。そういう感謝と義務感が入り混じった感情のようなものを抱えながら、なんとかやってきたタイプでした。
悩みができて、真剣に祈って、解決して、感謝して、しばらく活動をやるようになって。けれど続けているうちに組織活動に疲れてしまって、だんだんやらなくなる。
このパターンを、今まで何度も繰り返してきました。
題目の功徳は実感していて、家族には本当に感謝していて、池田先生のご指導も心からありがたいと思っている。そう思っているのだから活動をやらなければ、と義務感で続けようとするのですが、どうしても続かない。やっぱり私には組織活動は無理だな、まあまあ頑張って活動したからそろそろ恩は返したかな、とやめてしまう。その繰り返しでした。
娘の不登校で、いっぱいいっぱいになった2年半
ここ最近も、まさにそうでした。
娘が不登校になった最初の頃は、「この問題を信心で解決するんだ」と結構意気込んでいて、積極的に会合に出たり、活動も頑張ろうとしていた時期がありました。
けれど、現実はそう簡単ではありませんでした。
不登校の対応、学会活動、そして仕事。やることが多すぎて、いっぱいいっぱいになってしまったのです。一時期は学校に付き添ったりもしていましたし、仕事も並行して続けていました。精神的にも体力的にも、もう限界でした。
一度、学会活動を休みたい。とにかく今は題目をあげないとここを乗り切れない。仕事も経済的にギリギリだったので、簡単にやめるわけにはいかない。
ほんの一時期だけ、というつもりで、活動を一切休んでいました。気づけば、その「一時期」が2年半も続いていました。
現在進行形の、大きな悩み
そして今年。年末から年明けにかけて、とある問題が起こりました。
詳しい内容は今は書けないのですが、これが今もまだ、現在進行形で続いています。
今までも、悩んだときには必ず題目をあげてきました。けれど今回ばかりは、あげてもあげても、なかなか解決の糸口が見えませんでした。
辛い、苦しい。
今年に入ってから、毎日3時間も4時間も題目をあげています。
今はもう6月の上旬ですが、今年すでに500時間近くあげていることになります。10時間唱題も、今年に入ってもう6回やりました。それくらい題目をあげないと心がもたない、ちょっとの油断で大きなものを失ってしまうかもしれない、そういう悩みなのです。
初めて、御書を読まずにはいられなくなった
そんな中で、私は初めて御書を真剣に読むようになりました。
これまでは御書を読んでも意味がよくわからなくて、自分から進んでしっかり読む・研鑽するということをほとんどしてこなかったんです。
教学試験のときに、みんなで一緒に勉強する、あとは大白蓮華に載っている御書と解説を1回読むくらい。それだけでした。
それが今回、初めて、御書を真剣に読まずにはいられなくなりました。読んでも、やはり言葉が難してよくわからない箇所のほうが多かったです。それでも読まずにはいられない。それでも勇気と力をもらえています。
苦しすぎて、とにかく何か心が軽くなるヒントがほしくて。藁にもすがる思いだったのだと思います。
「もう今やるしかない」と、連絡した日
その辛い状況がピークだったのが、今年の3月頃でした。
「もう今やるしかない、学会活動を頑張るしかない。頑張るべき時だ。」という思いが、自分の中に湧いてきました。
それで、地元の白ゆり長さんに連絡をしてみたんです。
そうしたら、快くすぐに相談に乗ってくださって、話も聞いてくださって。それだけで、心がふっと軽くなりました。ああ、ありがたいな、と。
地区の女性部長さんにも連絡したところ、すぐに都合をつけて家まで来てくださいました。ご自身も本当に苦労を重ねてこられた方で、その体験のお話もしてくださって。本当にありがたかったです。
その地区女性部長さんは、学会の家に生まれたものの50歳までは全く信じておらずむしろアンチよりの考えだったのが、50歳の時に大きな悩みにぶつかって一念発起して活動を始めたそうです。私もあと数年で50歳です。不思議な縁を感じました。
もう今度こそ、しっかり学会活動を頑張ろう。そう決意しました。
3年ぶりの座談会で、感無量でした
3月から、学会活動を再開しました。
そして先月、3年ぶりくらいで地区座談会に参加しました。久しぶりの座談会。感無量でした。
悩みのほうは、まだ一進一退です。完全な解決には、なかなか至りません。
それでも、この恐怖の中、辛さの中で、題目をあげることで何とか精神を保つことができた。これは本当にありがたいことだと、心から思っています。
池田先生の言葉に、本当に励まされました。日蓮大聖人の言葉に勇気をもらいました。これがなければ、私はとっくに潰れてしまっていたと思います。
この苦しみには、きっと意味がある
今月6月の大白蓮華の「池田大作先生の講義に学ぶ」は、「難を乗り越える信心 師子の心で挑みゆけ」というテーマでした。まるで自分のために書かれているのではないかと思うような内容だと感じました。
難や試練に遭った時に、信力、行力を奮い起こして、仏力、法力を引き出す。
その応戦で積んだ「心の財(たから)」は大きい。崩れない。そして、多くの人を幸せにする力となります。
「難を乗り越える信心」です。
難に遭遇した時こそ、その人が築き上げてきた生き方の真価が最も鮮明に現れます。
喜び勇んで挑んでいくのが、創価の賢者の人生です。
「嵐は誉れ」です。
その勝利の鍵となるのが、難と真正面から向き合う、師子王のごとき信心なのです。
真の安楽とは、苦難と戦う中にこそあるという「難即安楽」の法理を示されています。
どんな悩みも、そのまま御本尊に祈っていけばいい。悩みを祈りに変えて、題目を唱えれば、わが生命に、勇気がみなぎり、希望が輝き始めるではありませんか。
「難を乗り越える信心」とは、「難を乗り越える祈り」であり、「難を乗り越える唱題」の異名です。
私たちは、いかなる障魔が競い起ころうとも、強き信心で、御本尊に祈ることができます。
いたずらに難を恐れて、”ほどほどに”小さく固まって生きるーーーそうした臆病な姿勢では、「歓喜の中の大歓喜」は得られません。日蓮大聖人の仏法は、消極的人生とは対極にあるといってよい。
「さあ何でもこい!」「難があるからこそ、人生を大きく楽しめるんだ。多くの人を救えるんだ」という、究極の積極的人生にこそ、真実の安楽があると教えられているのです。
大難の中でこそ、仏の生命を表していくことができる。小さな自分の殻を打ち破り、内なる妙法と一体の大我の生命となるのです。ゆえに題目を唱え抜き、「師子王の心」を取り出して、難と格闘することです。
人間は運命を嘆き、宿命に翻弄され、苦しむだけの存在ではない。難を乗り越えて、自他共の幸福を勝ち開く。その力を無限に解き放つための哲理が妙法です。そのための信心です。この境涯革命、人間革命を成し遂げるには、不惜身命の実践が欠かせないのです。
苦難を超えて、信心を貫き、広宣流布に生き抜く人は、凡夫の身のままで、胸中に大聖人と同じ最極の生命を湧現することができる。戦えば戦うほど、自分自身の仏の力が引き出せる。信心は、その秘術です。
苦難によって、自らの仏の生命が顕現されていく。大難を受けるほど、仏界の生命が輝きわたる。そういう自分を確立することが、一生成仏の道です。
真の人間性の錬磨は、難を乗り越える信心の中にある。
難に直面しても、信心が破られない人は、仏の眼で見れば、「難即安楽」で、もう乗り越えているのです。仏法は勝負であるゆえに、信心を貫けば、必ず現実の一切を勝ち超えていけるのです。
広布の師弟に生き抜く人は、一人残らず師子王です。人生を恐れなく楽しみ切っていける。社会を、世界を、希望の智慧で照らしていけるのです。
正しき信仰とは、永遠の「勇気の翼」であり、「幸福の翼」であり、「勝利の翼」です。
苦難の烈風があればあるほど、喜び挑んで悠々と飛翔し、境涯をどこまでも高めていけるのです。
さあ、胸を張り、頭を上げて、不撓不屈の誉れの「創価の翼」で、常勝の空へ晴れ晴れと舞いゆこうではありませんか!
難があるからこそ、人間革命できる。宿命転換できる。仏界を開いていくことができる。
本当に、池田先生の言葉は、地獄の暗闇の中にいるときに希望の光となって生命力を引き出してくれます。
そして、確かに、難があるからこそ成長できる、そうなのかもしれません。こういうことがなければ、私はちゃんと信心することもなく、そのまま惰性の人生を生きていたかもしれない。
後から振り返れば、今私が受けているこの苦しみには、すごく大きな意味があるのかもしれません。
この苦しみがあるおかげで、今は真剣に祈り、真剣に仏法を学び、真剣に自分自身の生命について考えています。
地獄の境涯と、希望の光の繰り返し
すみません、ここまで少し暗くなってしまいました。
辛く苦しくて、地獄のような精神状態に陥ることも、まだまだ多々あります。
ただ、暗闇に落ちたその瞬間に、また題目で生命力が湧いてきて、希望の光が見えて、「いや、大丈夫だ、頑張ろう」という心が出てくる。けれどしばらくするとまた、「もうダメだ、どうしよう、もう嫌だ」という心が顔を出す。そこでまた「いや、大丈夫なんだ。題目があるじゃないか。あげられるじゃないか」と自分を奮い立たせて、池田先生の言葉でまた立ち上がる。
本当に、その繰り返しです。
それでも、この地獄のような状態がずっとは続かない。それだけで、本当にありがたいと思うのです。
もしも信心をしていなかったら、この南無妙法蓮華経がなかったら、私はただただ地獄の境涯に居続けていたのだろうと思います。それを想像すると、本当に恐ろしい。
地獄の境涯に落ちては、また題目で勇気を奮い起こす。毎日毎日、瞬間瞬間、その繰り返しです。けれど、その繰り返しができるということ自体が、ありがたいことなのだと思います。
ここに御本尊があって、南無妙法蓮華経を唱えられる。唱えたその瞬間に、生命力が湧いてくる。この妙法に出会えている幸せを、今、本当に噛み締めています。
学会の人の明るさに希望もらう日々
そしてもうひとつ、救いになっていること。
学会の人たちが、みんな明るいということです。
話を聞いてくださった地区の女性部長さんも、本当に大変な状況の中にいらっしゃる方でした。その体験も話してくださったのですが、それでもものすごく明るい方なんです。いつも元気で、そんな悩みを抱えているなんて少しも感じさせない。本当にすごいなと、勇気をもらいましたし、励まされました。
最近はよく中道のいさ進一さんのYouTubeも観るのですが、観ているだけで元気になれるというか、希望をもらっています。
ご本人はネットでかなり激しく攻撃されているような状況にあるようなのですが(高市さんに予算委員会で選挙時の大量誹謗中傷動画について質問したことについて)、動画に出ているときはいつも普通に明るくて、「今僕いさ進一で検索するとすごいっすよ」というようなことを、からっとさらっと話していたりする。すごいなあ、と思います。
世間の空気に忖度せず、言うべきことをズバッと言う。そして、どれだけ攻撃されても恐れない。こういうのを「師子王の心」と言うのかな、と思いながら、本当に励まされました。
私も師子王の心を持ちたいと願いながら祈っているのですが、なかなか臆病な心を追い払えなくて、まだまだだなと思います。それでも、諦めずに、明るい先輩方のように、しっかり祈って、少しずつでも強くなっていきたいです。
今日の聖教新聞の言葉に、生命力をもらって
今日の聖教新聞も、体験のところに載っていた池田先生の言葉に、生命力をもらいました。
大生命力を湧き出して、困難をも笑い飛ばしていくのだ。
楽しんでいくのだ。
大変であればあるほど、強く、また強く!
朗らかに!
愉快に、希望の歌を歌いながら進みゆけ!
お蕎麦屋さんの体験のところに載っていた言葉だったのですが、読んでいて本当に勇気が湧く、希望が湧く、生命力が湧いてくる言葉だなと思いました。
信心をしているおかげで、毎日こうやって、聖教新聞、大白蓮華、池田先生の書籍、そして御書と、たくさんの言葉に励まされながら、何とか頑張っていられます。
そしてもちろん、題目を。南無妙法蓮華経を。これに出会えた幸せがわかった。それだけでも、今のこの苦しい状況には価値があるのだろうと思っています。
あらためて、広宣流布を軸に生きるということ
冒頭にも書いた、私の決意。広宣流布のために生きていく、ということについて、もう少し書かせてください。
今までは正直、「広宣流布ができたらすごいよね」という程度の感覚でした。この仏法の思想がもっと広まれば、確かに平和の思想だしいいよね、とは思っていた。けれど、どこか他人事で、「でも大変そうだな」という距離のある受け止め方だったのです。
それが今、新・人間革命をあらためて読んで(実際は毎日、音声で聞いているのですが)、山本伸一の考えや行動に触れる中で、池田先生の弟子になるとは本当はどういうことなのか、ということを考えるようになりました。
これまでも、池田先生は素晴らしい方で、本当にありがたい、勇気をくださる存在だという思いはありました。けれど「弟子として」と言われると、そこまで深く考えることは、正直ありませんでした。
それが今回初めて、ちゃんと池田先生の弟子になっていきたい、ならなければ。そういう決意に至っています。
このブログについて、これから
今日のこの記事は、その決意を一度きちんと書き残しておきたくて書きました。
このブログはもともと、学会活動の一環というか、活動に使えそうな資料を載せたり自分の体験を語ることで誰かのちょっとした役に立てばいいなという思いで始めたものでした。
こんなたまにしか更新していないブログでも、毎日何名かの方が読んでくださっているようです。うれしいことです。
少しでも励ましになるような、ちょっと題目をあげてみようかなと思ってもらえるような。そんな内容を、これからまた考えて書いていきたいと思います。
同じように、今辛い状況で苦しんでいる方へ。
私もまだ、一進一退の真っ最中です。なかなか終わりは見えません。それでも、乗り越えるまで祈り続けます。祈り切ります。
この悩みも、必ず乗り越えてみせます。そしていつか必ず、その報告をこのブログでさせてください。
一緒にがんばりましょう!
